言葉にならない苦痛が全身を駆けめぐり、海藤清弥は唐突に目を覚ました。
煙草の臭いと男の汗が混じった空気が鼻をつんざく。
顔を歪ませ数回瞬きをして、次第に意識がはっきりとした頃、人の気配を感じ左側に視線を向けると、爽やかな低音声が滑るように聞こえてきた。
「あ、気がつきましたか?」
鳴海真琴が心配した顔つきで様子を伺っていた。
彼の容姿は、ショートカットに散髪したが、一か月ほど放置したせいでボサボサにはねた黒髪、顎周りまで髪が伸びている。
右目の下には泣きホクロ。伏し目で透き通った紅茶色の瞳。
ミステリアスな印象の顔立ちだが、目の下にはクマがくっきりと浮かび上がり、疲弊がにじみ出ている。
不規則な生活習慣が続いたせいか、頬にはニキビがいくつか見える。
灰色のスーツに紫色のネクタイをきっちりと締めている。スーツの下から推測するに少し痩せ気味の体型、身長は約一七二センチ。
連日続いた捜査により疲労困憊し、見方によっては決して良い男の類に見えない。が、身だしなみを整え寝不足を解消し、食事をきちんと摂れば爽やかな好青年だ。
海藤は鳴海に返事をせずにゆっくりと周りを見渡す。
目の前には車 のハンドル、シートベルトをせず少しばかり後部座席へと倒されたシートに寄りかかっていた。
彼らが乗車しているのは覆面パトカー。車種はマツダの旧世代。
銀塗りの中型車だが、使いやすく走りの良さがある。海藤はこの中でしばらく仮眠をとっていたことを思い出す。
海藤は大欠伸をかましながら、スーツの胸ポケットからシガレットケースを取り出していると、鳴海は彼の手を制す。
「車内は禁煙ですよ」
大真面目な顔でシガレットケースをひょいっと奪うと、自分の胸ポケットに収めた。
鳴海は非喫煙者だ。ある程度のことは我慢できるようだが、スーツ類に煙草の臭いがつくのを一番嫌っている。車内にこれ以上、悪臭がつくのは耐えられないのが本音だろう。
真面目な部下に禁煙だと止められて、海藤は煙草をふかしたい衝動をぐっと抑えながらも捜査状況を聞く。
「動きはあったか」
「いいえ、なかなか尻尾を出しません」
海藤の言葉に鳴海はため息交じりに首を横に振る。
そんな傍らで海藤は外に視線を移すと、住宅街の遠くの街路で右往左往している一人の男性が目に映る。
金髪に染めあげたチンピラ姿の奴こそが、海藤達が見張っている人物だ。
「ターゲット、動き出しました」
鳴海は男性の方を目で追う。同様に海藤も男の方へ視線を戻すと、そいつは口をへの字にして歩いている。辺りを警戒しているが、海藤達に監視されていることに気づいていない。
しばらく彼らは男の様子を目で追っていると、男の向かう数メートル先に不審な奴を一人、目視できた。
黒いパーカーとジーンズ。パーカーのフードを深く被り顔を隠しているせいで、素顔はよく見えない。身長は約一七四センチってところだろう。
「見えるか、鳴海」
「はい。馬淵は会話もせずに、白い紙状のものを相手に渡しました。薬、ではなさそうです」
――馬淵、本名は馬淵恭介。海藤達が見張っているあの男。金髪に染めあげたチンピラの名だ。
麻薬製造及び末端の売人を多く率いる、某麻薬組織の幹部の一人。繁華街や人気の少ない住宅街で売買を繰り返していた犯罪者だ。
二年前、海光署の刑事課が馬渕を逮捕。半年前まで刑務所に収容されていた。釈放されてからというもの、彼は凝りもせずに再び犯罪の道へ手を染めようとしている。
馬淵本人には知られていないが、刑務所暮らしの間に彼の後首には小型の電子チップが埋め込まれている。もし彼が再び犯罪に手を染め、姿を見失うことになっても、居場所を特定、逮捕することが可能だ。
海藤達は「また薬物を売りさばく可能性があるから」という理由で、馬淵を監視しているわけではない。
「そうか」
海藤は大きく息を吐き出すと、背もたれに深く寄りかかる。
馬淵があのパーカーを被った奴と何のやりとりをしているのか思案していると突然、鳴海の携帯が振動する。鳴海は携帯を開くと耳元に押しやり、応答した。
「鳴海です、お疲れ様です。……はい、すぐに戻ります」
電話の主とやり取りを済ませると、鳴海は携帯をしまった。
「柳沢さんから招集がかかりました。署へ戻りましょう」
「ああ」
海藤は二言返事をした後、車のエンジンをかけゆっくり車体を動かすと、海光警察署へとハンドルを切り、車を走らせた。
【 第一話 相棒 End 】
【第二話 】
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